信じることについて

 「信じる」と言う行為は現代社会において軽視されているように思われる。科学技術を基盤とする現代社会では、科学的に証明されないことを信じることに抵抗を感じる人が多く、「証明してくれれば信用する」というようなことを言ったり、科学的に証明されていないことを信じるのは賢いことではないと思ったりもする。1995年に当時のオウム真理教によって引き起こされた地下鉄サリン事件は、宗教や教祖を信じることは場合によっては危険で反社会的な行為に繋がる可能性があることを示し、「信じる」という行為に対する警戒感を高めた。また、近年増加し、その手口がますます巧妙になってきている特殊詐欺は、人を信じることが軽率な行為で、人を疑うことの方が好ましい行為であるかような印象を社会に与えている。
 「信じる」という言葉を辞書で調べると、疑いを持たずに正しいと信じることなどと説明されている。人についてはその言動や人柄が正しく偽りがないと思って信用したり信頼したりする意味となり、宗教についてはその教えが真理であると思って帰依することを意味している。興味深いのは、信じることを意味する英語のbelieveを英英辞典で調べると、「確信がないことであっても、そのことが正しいと考えること」と説明されており、日本語の「信じる」とは少し異なるニュアンスで使われているようである。つまり、正しくないかもしれないと思っていることであってもbelieveという言葉が使われることを示唆している。これは考えてみると当然のことであって、信じる内容は本来不確かなことであり、証明されていること、例えば数学や物理の法則を信じる必要はない。
 では証明されていないこと、不確かなことや人を信じることは良いことなのであろうか、もしくは賢いとは言えない行為なのであろうか?信じることのメリットとデメリットについて考えてみたい。
 様々な特殊詐欺が横行する現在、信じることのデメリットとして誰もが騙される可能性を指摘するであろう。信頼した相手に意図的にもしくは結果的に裏切られることもあるであろう。偏狭な思想や宗教を信じてしまうと考え方が狭く固定化してしまい、異なる思想の人々や時には社会と対立してしまうという懸念もある。また、宗教的指導者、政治的指導者、組織の指導者など指導者を信じて全てを委ねすぎると、自分で考え、自分で判断するということを放棄してしまいかねない懸念もある。時折、企業の不祥事が報道されるが、経営者や上司または企業風土に従って行った行為であっても、それが違法な行為であれば個人としてその責任を免れることはできない。
 では、信じることのメリットは何であろうか?実は、私たちの生活や社会は無意識ではあるが多くの不確かなことを信じることによって成り立っている。消費者は購入する商品の品質や数量などが正しいことを信じてお金を払い、商店側は支払われるお金が偽札ではないと信じて商品と交換している。店や商品によっては偽ブランドを売っている場合もあるので、商品が100%まともであるとは言い切れない。また、ごく稀にではあるが、偽札を使う事件も発生しているので、お金も100%であるとは言えない。しかしながら、ほとんどの場合消費者も商店側も相手を信用して売買を成立させている。信じることができなかったならば、売買を成立させることが困難になって物資的生活に不自由をきたすだけでなく、売買の度に相手を疑い精神的に疲れ果ててしまうであろう。組織はその構成員が各々の任務を遂行するということを前提として、これを信じあうことによって運営されている。スポーツでも企業でも他の構成員の活動が信じられなくなれば、組織が円滑に機能しなくなることは明らかである。私たちが社会的役割、家庭的役割や自分の関心事などに専念できるのは、必要に応じて疑うことはあるものの、実は多くのことを適切に信用することによって可能になっているのである。
 人間関係において信じること、信頼することは相手の心を動かすため積極的な意味を持っている。多くの人にとって信頼された相手を裏切ることは難しく、むしろ相手の期待以上の行動でその信頼に応えようとする場合もある。人を疑うと余計なことを考えてしまうため不安の心が増大するが、相手を信じることは不安を減少させ精神的な安定をもたらす。また、相互に信頼しあうことができれば安心感だけでなく幸福感や感謝の心などよりポジティブな感情や心情をもたらし易くなる。
 スポーツにおいて自らに高い目標を課して、自分はできると自らに言い聞かせながら(信じながら)その目標達成に向けて努力すると言うことはよく耳にする話である。同様のことを研究活動や営業活動など企業の活動についても耳にすることが多い。自分の能力を疑って目標は達成できないのではないかという不安が高まってしまったならば、練習などに集中することができず目標を達成できる可能性は大幅に低下するであろう。目標は達成できると信じることにより、集中力が高まるだけでなく、心理的に前向きな状態になるとともに、粘り強さや忍耐力なども増加するであろう。
 以前のテレビ番組で、母子家庭で育ててくれた母親を亡くした若い男性が紹介されていた。この男性は母親の納棺の際に、十分な親孝行ができないままに母親を失ったためか、今は頼りない自分ではあるが今後人間的成長を遂げて亡くなった母親と再会したいとの趣旨の手紙を読み、この手紙を棺に納めた。私たちは、死後の世界について確かなことは知ることができず、死後親族と再会できるかどうかは不確かである。しかしながら、自分の成長した姿を母親に見せるために今後の人生で人間的成長を遂げようと決意したこの男性を非科学的だなどとして否定する人はいないであろう。
 神などの超越的な存在を信じる宗教の信者で、その超越的な存在を信じその宗教の教えに従って自らを律しながら道徳的な生活を送ろうとしている人がいたとすれば、そのような人に対して超越的な存在は科学的には証明することができないと主張してその信仰生活を否定し説得しようすることも、無益で愚かな行為であろう。
 信じるということはこのように、私たちの日常生活の見えない前提条件になっているだけでなく、人生において様々な積極的な役割も果たしているものなのである。このことを逆から見ると、自分の人生を前向きに有意義にするものであれば、それを信じることは肯定されて良いと考えることができる。これは、人生において価値を持つものは善であると考えたウィリアム・ジェイムズのプラグマティズム論と同様の考えである。尚、信じる内容については、2つの条件がある。一つは当然ながら他人や社会に悪影響を及ぼさないこと、もう一つは複数の信じる内容の間で矛盾や葛藤が生じないことである。
 人生を前向きに有意義にするものを信じることは肯定されて良いという考えを、仕事に対する意味づけということで考えてみたい。医療や福祉など人に貢献する仕事に従事する人が、仕事とは人に貢献することであると意味づけし(信じて)、常に相手のことを思いやりながら職務を遂行しているとすれば、当人にとって有意義なこの意味づけを否定すべき妥当な理由は存在しない。スポーツや芸術を職業とする人が、仕事とは自分の能力を最大限に伸ばすように努力しその能力を発揮させるであると意味づけして(信じて)、自分の能力の向上のために日々努力を積み重ねているとすれば、この意味づけを否定すべき妥当な理由はない。苦労や困難の多い仕事に従事する人が、仕事とは苦労や困難を通して人間的成長を遂げることがその究極的目的であると意味づけて(信じて)忍耐を信条として職務を遂行しているとすれば、これも否定することは無益であり愚かであろう。これらの意味づけは、それぞれに異なるものであり、当然ながらいつでもどこでも誰にでも通用する絶対的に正しいものではない。信じる内容は自分の人生において有意義な役割を果たすものであればよく、必ずしも絶対的に正しいものである必要はない。
 この仕事に対する意味づけのように、自分の職業生活や人生に自分なりの意味づけや目標設定を行い、これを意識しながら生活することは有意義である。このようにして設定された信条は日々の活動を合目的的にするだけでなく、行動の優先順位を明確にして信条にそぐわない考えや行動を減少させることができる。
 次に他人の行動の解釈という行為に関係して信じるということついて考えてみたい。他人の行動の目的は私たちにはわからない。その行動は当人の無意識の動機によって引き起こされた可能性もあるので、行動した本人がその行動の心理的目的を理解していないことさえある。しかしながら、私たちは他人の行動の目的を自分なりに解釈し、その解釈に基づいて(信じて)行動している。他人の行動を好意的に解釈することも可能であり、悪意を持った行動として解釈することも可能である。また、意図的ではない習慣的な行動、もしくは偶然の行動と解釈することも可能であり、その行動の目的は所詮他人には分からないとして解釈を保留するという選択肢もある。現実的には相手の行動の解釈をその時の自分の気分や感情に委ねてしまうことがあるが、これはあまり好ましくはないであろう。多くの場合その人の通常の行動パターンや性格などからその行動の目的を解釈するであろうが、上記のプラグマティズム的考えに従うならば、その人の通常の行動パターンや性格という現実を踏まえつつ、自分にとっても相手にとっても、また両者の関係にとっても最も有益な解釈を選択することが妥当だという結論になる。
 しかしながら、このプラグマティズム的選択は、自分と相手とその両者の人間関係において最も有益だという理由で選択しただけである。行動目的の解釈という問題では、仕事の意味づけの場合とは異なり、正しい解釈が存在するはずである。しかしながら、日常生活において私たちは正しい保証がない何らかの解釈を選択し、その解釈を前提として(信じて)行動している。ここに信じるという行為に必要な条件が追加される。つまり、信じたことは間違っている可能性があり、信じたことが不適切だと思われる状況になったら、その内容をもう一度見直す必要があることを前提としておかなければならないという事である。また、その解釈を選択したのは自分であるため、信じた内容を見直す必要が生じた時にはその責任は自分にあり、相手にはないというも併せて認識していなければならない。この観点に立てば、信じていたのに裏切られたと言って相手を恨んだりするのは妥当ではない。
 信じる責任は自分にあるということは重要なことであり、こう考えるためには信じる内容や相手について、自分なりに考えて主体的な判断をする必要がある。主体的な判断をせずに人の話などを鵜呑みにするのは好ましいことではない。言葉の定義の違いにあったように、日本では信じるという言葉を疑わないことだと思い込んでしまう傾向があるが、信じることのデメリットの多くは主体的判断をせずに相手の話を鵜呑みにし、その後もそのことについて疑問を抱こうとしないことに起因しているのではないかと考える。
 騙されるということに関連して留意しておくべきことは、人は不幸や自分に都合が悪いことが生じると「なぜ?」と疑問を抱くが、自分に都合の良いことは素直に受け入れ易く疑問を抱きにくい傾向があるということである。(このことに関連して、本来は物事の原因と結果という意味の因果という仏教用語が、本来の意味の他に「因果なことだ」などと不幸な状態の表現に用いられるのは興味深いと思う)尚、絶対に騙されてはいけないと考える必要はない。疑うことは不安や相手に対する嫌悪など自分自身の心情をネガティブなものにするだけでなく、状況によっては時間のロスや物資的な損失を伴ってしまう場合がある。信じた結果たとえ騙されたとしても、その損失が疑うことの損失よりも小さいと思われるのであれば信じる方が有利である。更に、騙される確率を含めてより数学的に考えると、騙される確率が小さければ騙された場合の損失が疑うことの損失よりも大きくても信じた方が総合的には有利である。また、このような損得計算を離れて、親が子どもに対して、もしくは人格者が若年者に対して、相手の成長のために騙されたり裏切られたりすることも許容して相手を信用するということがあるが、これはまさに主体的な判断であると言えるだろう。
 これらの考察を踏まえると、信じるという行為は確かではないが自分の人生に役立つものを、自分の生活や人生の前提として自分の責任において肯定的に仮置きすることではないかと考える。仮置きするとは、信じるものを生活や人生の前提として据えておくものの、状況の変化に応じて見直す余地を残しておくことを意味する。
 信じることをこのように定義し、自らの人生に有意義なことについては積極的に信じる姿勢をもつことにより、自分の人生における価値観を明確にすることが可能になり、優先順位が低く有意義でない考えや不安を排除することができるものと考える。人を安易に信じることは賢いことではなく、だまされないために人を疑う方が賢い方法だとも考えがちであるが、疑うことは心的エネルギーの消耗であり、相手に対して好ましい影響を与えることはできず、相手からも好ましい反応を期待することはできない。信じるという行為を自己責任の肯定的仮置きと定義することにより、人生のより多くの場面に有効活用することができるのではないかと考える。
 尚、信じることが正しく疑うことは間違っているということはできない。疑うことは失うことを恐れる防衛的心情と関係した消極的姿勢であり、信じることは人生をより有意義にしようという積極的姿勢であるという、性格の違いに過ぎない。人に騙されて大変な経験をした人は、その傷が癒えない限り防衛的心情から抜け出すことは困難であり、そのような人を非難することはできない。