罪という言葉は、一般的には法律や道徳、宗教の教えなどに反する悪い行為や、その行為を行なったことに関する反省的な自覚、もしくはその結果受ける社会的な罰を意味するが、どのような行為を悪と考えるかについては文化差や宗教の違いだけではなく個人差も大きい。また、罪の判断やその重さは問題となる行為の意図やその行為が与えた影響の大きさなどによっても、異なってくる。心理的学的な側面から言えば、その行為者(自分/他人、好きな人/嫌いな人、仲間/敵対グループなど)によってバイアスが存在し罪の判断が異なっているのが現実である。
現代人がどのような行為に対して悪と判断するか罪を感じるかは興味のあるところであるが、法律に違反する行為に加えて、嘘をつくことについては多くの人が罪と考えているのではないかと推定する。道徳的に厳しく考えれば、陰口や他人をからかう言葉も罪であり、他人に対して怒り、敵意、嫉妬など好ましくない思いを抱いただけでも罪であると言える。仏教には『他人の過失を見るなかれ』(真理のことば)との教えがあり、キリスト教には『人を裁くな』(山頂の垂訓)との教えがあり、いずれにおいても他人の批判は悪い行為とみなされているが、現代社会においては人を批判することを悪どころかむしろ善だと思い込んでいる傾向があるのではないかと懸念される。インターネット社会においては、批判が誹謗中傷や脅迫にまでエスカレートしてしまうことがあり、深刻な問題を引き起こしてしまうことがある。悪や罪の判断が個人によって大きく異なることを考えれば、価値観の違いに基づいてお互いに批判をし合うことは当事者間に深刻な対立をもたらすだけであるが、他人を批判しようとする時は自分を正義であると思い込みがちであり、自制心が働きにくく批判はエスカレートしてしまいがちである。上記の広義の悪い行為に加えて、一般的には悪と見做されない行為であっても結果的に他人を傷つけてしまえば、人は罪を感じてしまう。これらを含めて考えれば、人生で罪を犯していない人はほとんどいないであろう。
では、ほとんどの人が何らかの罪を犯していると言う悲しい現実を受け入れるとどのようなことが言えるか考えてみたい。
罪については「絶対にあってはならないもの」と考えてしまいかねないが、ほとんどの人が罪を犯しているという現実を踏まえるとこれは適当ではない。罪を「絶対にあってはならないもの」と考えると、内向的な人は自分の犯した罪を過剰に反省して精神的に萎縮してしまう可能性があり、極端な場合には自分に絶望し自暴自棄にもなりかねない。また、罪を「絶対にあってはならないもの」と考えると、罪を犯した人に対して過剰な批判を集中させてしまう可能性があり、更には罪を犯した人を社会から排除しようとする傾向を生じさせかねない。ほとんどの人が罪を犯しているという現実を考えれば、罪を犯した人を社会から排除しようとすることが適当でないことは明白であるが、残念ながら罪や過ちを犯した人を社会から排除しようとする傾向は少なからず存在する。罪や過ちは望ましくはないが、人生において完全には避けることができないものと見做すことが現実的で妥当だと考える。
人生で罪を避けることができないのであるならば、罪になんらかの積極的な意味や役割を見出すことができないであろうか?人生において罪を避けることができないということは、人間は完全な存在ではないことを意味する。自分も他人も不完全な人間であり、従って自分の考えや他人の考えも常に正しい訳ではないであろうと自覚すれば、他人の罪や意見の相違に関して寛容になれるであろう。また不完全で罪を犯すのは自分だけはないと認識すれば、内省的な人は不完全な自分に対して寛容になることができるのではないかと思う。
罪を犯したと自覚した場合多くの人はその人なりに反省して、相手に謝罪したりそれ以降の行動について修正を加えようと意識する。つまり、罪を犯しそれを見つめることにより人は自らの問題点に気づきこれを修正し、結果的に人間的成長を遂げているということができる。自らも含めてほとんどの人は不完全な人間であるという認識に立てば、人生を人間的成長の場であると考えることは不自然ではない。また、人は人間性の優れた人を知ると感動しそのような人に憧れ、自らもそのような人になりたいと思う。このような善への志向性は人生を人間的成長の場とする考えと一致する。罪を改善・成長が可能な自らの側面を発見するための契機とみなすことにより、人生における肯定的な意味を罪に付与することができるのではないかと考える。