普遍的政治理念における政策

 心のあり方や人間的成長を重視するという政治理念と関係する政策について、以下思いつくままにではあるが、考察してみたい。
 共存というキーワードと関係する政策としては、難民・移民の受け入れがある。特に難民の受け入れは、人道的問題であり、国際社会への貢献でもある。しかしながら、日本政府は難民の受け入れに消極的であり、その根底には難民を受け入れると犯罪が増加するのではないかという懸念がある。しかし、「犯罪を増加させないために、難民を受け入れない」という方針は、難民を受け入れている諸外国の治安が日本よりも悪いことを考えると、身勝手で人道主義的ではないとの非難を免れない。残念ながら日本政府は自国民以外の人権については鈍感なことが多い。例えば、出入国在留管理庁(旧入国管理局)の収容所では難民申請者を期限を定めずに収容しているために、被収容者はいつ収容所を出られるかわからないと言う精神的苦痛を抱えている。収容所では多くの自殺者も出ていると報道されており、国連人権理事会の作業部会からは国際人権法に違反しているとの指摘を受けている。これは新たな政治理念以前の問題であり、難民申請者の心の痛みに寄り添い、難民申請者の立場に立った制度と運用への早急な変更が求められる。
 難民・移民の受け入れは、今後ますます進む高齢化と人口減少に対する一つの有効な対策になりうるという側面もある。このため、日本としては難民・移民を受け入れつつ社会の治安を保つという挑戦に挑むことが重要である。犯罪は貧困だけでなく心のあり方にも関係するため、心のあり方や人間的成長を重視するという政治理念や国家の方針を難民・移民に浸透させつつ、段階的にその数を増加させることにより、社会の安全に重大な影響を及ぼさずに国際社会に貢献することは可能であると思いたい。この問題も含めて日本では不安を強調しすぎる傾向があり、あるべき姿やメリットを考慮せずに判断してしまいがちである。この問題については国内の議論も不十分であり、議論を深めつつ受け入れを積極的に推進することが必要である。
 社会の治安にかかわる問題として、日本では犯罪者の再犯率が高いことが指摘されている。受刑者が出所5年以内に犯罪を犯し再入所する再入率は40%前後で推移、出所10年以内の再入率は50%前後と高い水準を推移している。再犯率が高い要因の一つとして、賃貸住宅への入居を断られることが多いため住所が定まりにくく、再就職が困難であることが指摘されている。このような状況は、出所後に更生して社会に復帰しようという志を持っていてもその阻害要因となってしまい、社会的損失にもつながっている。民間企業に犯罪者の受け入れを強制することはできないため、政府が住居や職業斡旋について出所者の支援をすることが必要ではないかと考える。また、社会復帰を果たすまでには心理ストレスが大きく、かつ犯罪者には心理的問題が潜んでいることが多いと考えられるため、心理カウンセリングも提供することが望ましい。心理カウンセリングなどの支援も受けられる住居に住んでいる人であれば、出所者であっても就職がしやすくなるのではないかと期待できる。犯罪者を支援することについては違和感を覚える人もいるかもしれないが、経済中心の政治で経済的弱者を支援してきたように、心を重視する政治において心の問題を抱えた人を支援することは不自然ではなく、結果的には治安の改善という社会的メリットが得られる。尚、ノルウェーでは1970年代に犯罪の厳罰化から方向転換し、刑務所の生活を一般人と同様な快適なものとしその目的を更生と社会復帰とすることで再犯率を大幅に低下させている。
 出所者の受け入れと難民・移民の受け入れには共通するものがある。異質なものに対する不安を掻き立てるよりも、同じ人間として受け入れお互いの善意を伸ばし合おうとする意志が大切である。不安に注目し不安に注意が集中すると不安はますます増大するという森田正馬が精神交互作用と呼んだ傾向があるため、不安に駆り立てられて他人を排除しようとすることはその当人をも幸福にはしない。これとは反対に、他人に対する好意や善意は相手に良い影響を及ぼし、その相手から好ましい反応を引き出すことができる。
 人間的成長は、前述したように社会的活動にも深くかかわるものであり、さまざまな社会的経験を積むことが人間的成長を遂げるきっかけともなる。このため定年退職後の人々に対して、社会的活動の機会を設けることは重要な政治政策となりうる。特にボランティア活動は、活動者の精神的充実だけでなく、人材の活用や社会的機能の充実というメリットもある。現在、ボランティアは主に災害時の支援活動として認識されているが、海外では医療活動の支援なども行なわれており、災害支援だけでなく医療補助、教育補助、障礙者支援、犯罪者の社会復帰支援、観光事業推進などより幅広い活動を検討し、これにより様々な社会的機能を充実させることができるのではないかと期待される。これらの社会的活動を行う上においては、それまでの経験を生かすこともできるが、必要とされる知識や資格などを習得することも大切である。大学がこのための学問をする場として一般化すれば、少子化のために減少する学生数を補うだけでなく、大学で学ぶ若い学生にとっても社会生活を経験した人と一緒に学ぶことは良い経験になるものと期待される。
 一方、社会的活動に参加していない引きこもりは日本社会の大きな問題であり、その人数は中高年を含めて100万人を超えると報告されている。行政も引きこもりとその家族に対する支援を行っているものの、引きこもり人数の多さと当事者が人との接触を回避しようとするその性質上、支援が十分行き届いていないのが実態であろう。引きこもりの当事者とその家族に対する支援を引き続き充実させることも重要であるが、何故日本で特に引きこもりが多いのかについて考え方の傾向や習慣などの文化的な観点から調査し、対応策を検討することも必要ではないかと考える。引きこもりの個人的な原因はさまざまであろうが、共通する問題は当事者側だけでなく、例えば異質なものを排除しようとする傾向など社会の側にも存在する可能性がある。この意味で引きこもりを日本社会全体の問題として捉えて、支援体制を含めて様々な観点から対策を検討すべきではないかと考える。尚、引きこもりは社会からの離脱もしくは脱落などネガティブな印象があり、当事者もその印象に苦しめられているのではないかと考えられる。社会的活動や社会的貢献だけが人生における重要なことだと考えてしまうと、このネガティブな印象はますます強まってしまう。このため、例えばヴィクトール・フランクルが人生には創造価値、経験価値、態度価値の3種類の価値があると主張したように、人生には様々な価値があり人によって異なるという理解を当事者や家族、社会全体がもつことが大切ではないかと思う。尚、「引きこもり」という言葉は社会という観点から見た言葉であるが、例えば「人生の価値を求めて自己と格闘する人」など心理的で前向きな観点で定義し直し、これを共有化することも有意義なのではないかと考える。
 日本の学校教育においては過剰と思われる校則に代表されるように生徒を管理しようとする傾向が強く、これに対する反発やあきらめは精神的成長の妨げになっているのではないかと懸念される。過剰な校則が「問題を起こさないために~しない、させない」という発想方法から設定されたものであるとすれば、人間は失敗を犯す存在であることを再確認し、むしろ失敗から学ぶことの大切さを重視してこれを生徒に自覚させる方向に修正すべきではないかと考える。また、同じ服装や行動を強いるように生徒を管理する対象と見做しているのであれば、本来はその逆に学校が生徒の知的及び精神的成長のために奉仕するための存在であることを再確認すべきである。学校教育の目的は組織や国家が求める人材を作りだすことではなく、自分自身や社会をより良い方向に改善するように自分で考え行動するような自主性のある人材を育てることではないかと考える。
 一方、知識の詰め込み教育や過度の受験戦争の反省として2002年から実施されたゆとり教育は、学習の量について生徒自身に委ねた試みであるとも解釈されるが、結果的に学力の低下を招き2011年以降修正が図られた。ゆとり教育の問題点は、教育に関する目的意識や自らの成長に対する責任感を醸成しないままに学習時間や内容の軽減を実行したこと、また教育が鍛錬という側面を持っていることを軽視したことではないかと考える。人間は目的意識や責任感が不足していると、精神的緊張がなくなり安易な方向に陥りがちである。生徒を管理・強制する学校教育から生徒の目的意識と責任感を醸成する学校教育に方向転換するとともに、社会的貢献や人間的成長のいずれにおいても自らを制する克己心が必要であり、学習はその克己心を養う機会でもあることを自覚させることが大切ではないかと考える。
 外交については、国家の役割(国民への奉仕)、人権の最優先、内政干渉が認められる条件(又は限界)、究極的には人間的成長を最優先とする政治理念について国際的合意を形成することに努め、この合意に参画する国々と連携を深めることにより、世界各地の紛争や人権問題を抑制する環境作りをすることが最重要課題だと考える。