社会契約説によれば、社会や国家は個人の財産や権利を守るために人々の自発的な合意によって成立したものであると解釈されているが、これは国家よりも国民を主体とした考えである。国家を考える際に決定的に重要なことは、主権、つまり最高権力が誰にあるかということであろう。日本国憲法では主権は国民にあると規定しており、国家や為政者のために国民の自由や権利が制限されることは原則的に許されていない。しかしながら権力主義的国家では、国家の体制や治安を守るためという名目で国民の自由や権利を制限し、政府に反対する者に弾圧を加えるということが現在でも行われている。このような国々で“国家”や“体制”と呼ぶものの正体について考えてみると、多くの場合それは為政者、もしくは支配層でしかないことに気づくであろう。つまり国家や体制を守ろうとするのは、為政者や支配層が自らの地位の安泰を図るために国民を支配しようとする姿勢でしかない。国家が国民のための存在か、為政者・支配層のための存在かという問いであれば、ほとんどの人は前者であると回答するであろう。為政者は国民の幸福の実現のために政治を行うのであるが、国民が望むのであれば政治体制を大きく変更させる覚悟を持つ必要がある。
但し、ここには幾つか問題が残っている。一つは、政府に反対する活動はどこまで許されるべきかということである。もう一つは、国家は国内法を定めればどのような行為であっても許されるということであってはならないということである。また、これと関係するが内政干渉が認められる範囲、または条件を明らかにしておく必要があるということである。これらのいずれについても国際的な合意を形成する必要があるが、このような合意を承認するか否かはその国の本質を見定める良い機会であり、各国とどの程度の外交関係を持つべきかを判断する重要な根拠とするべきであろう。
国家の主権は国民にあると定めている国家においては、政府は国民の意見に基づいて運営されるべき組織であり、国民に奉仕すべき存在である。政治の実践上重要なことは、これがいかに徹底できているかということである。残念ながら、今までの日本の政治には「由らしむべし、知らしむべからず」という風潮や、国民よりも企業や産業を優先する傾向があり、国民に奉仕するという理想からは程遠い状況である。日本は主権在民の国家であるが、実は政府にはかなり権力主義的な傾向が残っており、今後は行政に関する情報公開や国民による行政の評価や見直しが重要な課題として検討されるべきであると考える。