障害者という言葉について

 2016年に発生した相模原障害者施設での殺傷事件の被告は、障害者は社会の害であるとの趣旨の発言をしていると報道され、これを契機に「障害者」という表記に疑問を抱くようになった人は多いのではないかと思う。「障害」という言葉は、戦前は「障碍」または「障礙」と表記されており、戦後になって漢字表記の簡素化を図るために当用漢字が制定され以降「障害」の表記が使用され続けている。
 戦前に使用されていた「碍」という漢字は「礙」の俗字とされていて、いずれもさまたげるとの意味をもっており、自由自在でとらわれることのない「融通無礙(碍)」という言葉にも使用されている。「礙」は意味を理解しやすい漢字であり、(道にある)石のために前に進むことを疑い止まる状態から、さまたげるとの意味につながっている。障害者はまさにその障害のために前に進みにくい人であり、社会に害を与える人ではない。このため、障害者に対する偏見を少しでも減らすために、「障害者」の表記を「障礙者」に戻すべきではないかと考える。福祉の現場では害という文字を避けてひらがなを用いて「障がい」と表記をすることが多くなっていると聞くが、意味を曖昧にするよりも、むしろ積極的にその意味を明確にするために「障礙者」と表記することの方が望ましい。
 尚、前に進みにくいという「障礙」という言葉について考えてみると、「障礙者」が特別な人ではないことに改めて気づかされる。体育が苦手で体育について前に進みにくい人、音楽が苦手で音楽について前に進みにくい人など、誰しも何かしら不得意な分野を持っているのではないだろうか?これらの不得意分野は欠点として見るべきではなく個性と見做すべきであると思うが、「障礙者」もまたこれらと同様の個性であるとみなすべきだと考える。また能力だけではなく、性格についてもほとんどの人は何らかの偏りをもっており、そのために社交性や社会的活動の面で困難を抱えている人もいるのと思われる。これを性格的障礙と見做せば障礙という概念がかなり広くなり、誰にとっても障礙が身近なものと感じられるようになるのではないかと思う。
 これらの障礙は一般的にはマイナスに考えられがちであるが、障礙を持つことで他人に対する思いやりを持つようになる人もあり、また障礙を克服するために発奮し健常者以上の活躍を示す人もいる。障礙は欠点ではなく、その障礙と向き合うその人の姿勢によって評価されるべきものであろう。但し、社会的活動など特定の活動のみに価値を認める考えにおいては、障礙はマイナスと見做されやすいため、社会が多様な価値観を認めるようになる必要もある。ヴィクトール・フランクルの態度価値のように心のあり方を重視する考えにおいては、障礙は欠点ではなくむしろ精神的成長の契機、促進要因と見做すことができると思う。
 障礙は程度の差はあれ誰しもが持つものであり、従来の「障礙者」は医学的に障礙を持つと診断された人であると再定義するべきではないかと考える。