普遍的政治理念

 戦後長く続いた自由民主党と社会党を中心としたいわゆる55年体制が崩壊してから、様々な新しい新党が結成され、またその多くの政党が解体していった。自由民主党は農林水産業を含めた自営業者や経営団体を支持層としてこれらの産業の保護や育成を重視してきた政党であり、社会党は労働者を支持層として社会的格差の是正や福祉を重視してきた政党であったと理解することが妥当であろうと思われるが、55年体制崩壊後の新しい政党は従来の自由民主党と社会党の間のどこかに位置する政党であり、明確な新しい理念を持った政党ではなかったように思われる。
 日本国では国民の自由が保障され、民主主義も一応実現されている。また、最近は福祉についても充実が進んできているため、自由、民主主義、福祉などの面においては政党間の極端な政策の違いは少なくなってきており、このため各政党の主張もそれほど異なったものにはならず、国民から見るとどのような政治理念の違いで政党の離合集散が繰り返されてきたのかが理解しにくい状態が続いてきた。
 では、新しい政治理念というものは存在しえなく、今後も政治理念の違いがわかりにくい政党の離合集散が続くだけなのであろうか?従来の政治は経済成長優先と弱者保護優先という対立構造において展開されてきたとも言えるが、この対立構造は経済という軸に沿った対立構造でしかなく、現在世界で台頭しつつある自国第一主義も経済という軸に沿った考え方でしかないと言える。経済という座標軸からしか見るこのことのできない政治では、経済に起因する対立を生じさせる可能性があるとともに、経済以外の問題を解決する力が乏しい。宗教間対立や民族間対立は、経済という視点からでは解決が難しい。また、自国に経済的負担を強いながら解決する必要のある地球温暖化やプラスティックごみの海洋汚染などの問題では、各国の意識を共通化し協力体制を構築することが困難である。
 現在では職業と支持政党の関係は弱くなってきていると思われるが、過去の政党の支持層は自由民主党が自営業者を含む経営者側であり、社会党は労働者側であった。現在までに至る国会での不毛な与野党対立はこの対立構造が引き続き強く意識され習慣化されてしまった結果ではないだろうか?経営者も労働者も職場においては協力して働く仲間であり、個人的には労働者と経営者の両方を経験する人も多い。経営者と労働者とを対立的に見るのは一面的に過ぎないだけでなく、異なる立場や見解の人と一緒に生きていくという人間社会の自然に反しているとも言える。心理的に見れば相手を批判する心や怒る心を増大させ、寛容からは遠ざかり、人間的成長という観点から見て望ましくはない。このため、新しい政治理念では、職業・職種などにおいて特定の支持層を前提としないことが望ましいと考える。新しい政治理念の根底には立場や経済状態、思想が異なる人々と社会で共存して生きていこうとする姿勢が必要である。また、この新しい政治理念を国際社会においても受け入れられるようにするには、民族、宗教、文化が異なる人々との共存も前提にする必要がある。
 では、民族、宗教、文化、職業・職種、経済状態、思想などに依存しない政治理念は存在しうるのだろうか?すべての人とは言わないまでもより多くの人に支持されうる新しい政治理念とはどのようなものが考えられるのであろうか。
 新しい政治理念の根底には共存の姿勢が必要だと述べたが、実生活において様々に異なる人々と共存するために必要なことは、寛容の心と相手に対する思いやりではないかと思う。また、全ての人はその人なりの幸福感や生き甲斐を求めて生活していると言えるが、利己的ではない健全な意味での幸福感はその状態や周囲の人々に対して感謝する穏やかな心があって得られるものではないかと思う。更に、多くの先人は経済的成功には勤勉さや誠実な心が必要だと指摘しているが、これは個人についてだけに言えることではなく組織や国家についても言えることではないかと思う。これらを総合して考えると、心のあり方を重視する政治理念は、人々の幸福感を高めることに貢献し、経済的繁栄とも矛盾せず、国内外を問わず異なる人々とも共有できる可能性がある。当然ながらここで言う心のあり方とは、当人にとっても社会や国家にとっても好ましい心のあり方であり、別の表現をすれば、心の成長、または人間的成長を重視する政治理念と言うこともできる。
 心のあり方や人間的成長を重視すると、日常的な活動を軽視し過剰な精神主義に陥るのではないかという懸念を持つ人がいるかもしれない。しかし、精神活動を伴わない身体活動というものはほとんど存在しない。スポーツや芸術を含めて職業的活動に注力することは、勤勉さ、自己制御、自己信頼、他者との共感など様々な面で人間的成長を伴っている。義務的な仕事の仕方では心の成長は伴わないかもしれないが、心をこめてさまざまな工夫を凝らしながら仕事に没頭している時は通常なんらかの努力がなされており、その努力に応じて克己や忍耐などなんらかの人間的成長が伴っているであろう。仕事以外の活動であっても、例えば人への接し方について考えてみればわかるように、人のほとんどの活動は心のあり方と無関係ではない。別な言い方をするならば、人は些細な行動であっても心をこめて行うことにより、日々人間的に成長をすることができると言える。
 但し、心のあり方や人間的成長を重視する際に注意すべき点がある。一つは、矛盾するようであるが、心のあり方や人間的成長自体を目的にしない方が良いということである。精神科医のヴィクトール・フランクルは、眠れない時に眠ろうと意識しすぎるとかえって眠れなくなるように、幸福や良心や人生の意味は直接求めようとするとその目的が達成できないと述べている。彼はまた神のような完全な心になろうとしすぎると、強迫神経症的に過剰な反省をするようになったり、もしくは偽善者的になったりしかねないと指摘している。このため、上述のように職業活動や日常的活動を重視し、これらの行動に心をこめるようにすることが大切である。職業活動や日常的活動に心をこめることを重視することは、過剰な精神主義に対する懸念も解消させるであろう。
 もう一つの留意点は、人はこうあるべきというような特定の倫理的モデルを提示しその型にはめようとすることは好ましくなく、特に強制したりしてはならないということである。人はロボットではなく、人間的成長は工業製品のような一様なものではない。人にはそれぞれ個性や個別の事情があり、どのような面でどのように人間的成長を遂げるかはその人次第であり、個人に委ねられるべきである。こうあるべきであると提示された倫理的モデルが、個人の経験によっては受け入れ難い可能性がある。虐待など厳しい状況に置かれた人の中には、心のあり方などに気を配る余裕がない人もいるであろう。集団主義的傾向の強い日本では、特定の倫理的モデルを提示することは集団的な心理的圧力をかけることになり、いじめにもつながりかねない。
 人間的成長を個人に委ねるということは、思想や行動の自由と関係している。人間的成長は、人がそれぞれの環境においてその人なりに考えて自由に行動しその行動の結果を自覚しながら徐々にその思想や行動を修正することにより達成されるべきである。このため、人間的成長を重視するという政治理念においては、思想や行動の自由は前提条件とでもいうべきものになる。個人の自由がなぜ必要かと改めて問われると戸惑う人が多いのではないかと思うが、人間的成長を中心に据える政治理念においては、個人の自由は人間的成長のために必要なものであるからと答えることができる。