私たちは「公平でない」として相手や社会に不満や怒りを感じることがある。時には双方が、相手を「公平でない」と非難し合うこともある。では公平とはなんであろうか?
考察の都合上公平と似た意味の平等について先に説明すると、平等とはかたよりや差別がなく同じように扱うことを意味する。平等には2種類あり、機会の平等と結果の平等とがある。前者は、入試や採用などで個人を差別なく同じように扱うことであり、後者は、仕事の結果である給与などを差別なく同じ量で分けあうことを意味する。平等においては個人の特性は考慮されないため、客観的な平等は実現しやすい。しかしながら、給料が結果の平等に基づいて個人の業績を無視して全員同額で支給されたとすれば、社員の労働意欲は減少し会社内に不満がたまることは明らかである。
ここで、公平の話からは少し脱線するものの、機会の平等と結果の平等について理解を深めるために学校教育における平等について考えてみたい。現在の学校教育は機会の平等という考え方に基づいており、教師が生徒に対して費やす時間は基本的には生徒の能力などに依存せず一定である。この結果として、理解力が高い生徒は知的能力をどんどんと高める一方、理解力が低い生徒はあまり知的能力をあまり発達させることができず、結果的に社会に出る前の知的能力の差は就学以前より拡大した状態となっているのではないかと推定される。知的能力がそのまま社会での能力や収入に直結する訳ではないが、少なくとも知的能力の低い人は就職先を見つけることが難しく、これが社会の貧富の差の一原因になっていると考えることができる。日本と米国は全体的には裕福な国であるものの国内の貧富の差が大きく特に米国では大きな社会問題となっている。
それでは結果の平等という考え方を学校教育(特に義務教育)に導入したらどうなるであろうか?卒業する生徒の学力は学校教育の結果と言えるので、教育の結果がなるべく等しくなるように教師は理解力の低い生徒により多くの時間を割いて指導をする。理解力の低い人が卒業する時点での知的能力は現在よりも上昇するので、就職がしやすくなり結果的に社会の中の貧富の差が縮小することが期待される。この考え方は現時点では受け入れられないであろうが、将来貧富の差が更に拡大し社会的に許容できないまでの深刻な問題になった場合には、国民に受け入れられる可能性を否定できなくなるのではないかと思う。ここで言いたいことは内容の是非ではなく、現在の常識や判断基準は唯一で絶対的なものではなく、社会情勢や人々の意識によって大きく変化する可能性があるということである。
平等という言葉に比べると公平という言葉の意味はやや曖昧であり、多くの辞書では「かたよらず、えこひいきのないこと」と平等と同じような意味で定義しているものの、実際には平等とは少し違ったニュアンスで使用されることが多い。公平に相当する英語のfairを言葉のニュアンスを知るために英英辞典で調べると、「全員を等しく扱う」という平等と同じ意味の他に、「妥当で容認できる」との意味があることが分かる。公平という言葉は実際には、後者の「妥当で容認できる」というニュアンスをもって使われることが多い。つまり、平等が個人の特性を無視しているのに対し、公平(fair)は個人の特性(能力や業績など)を考慮して個人や社会が容認できるように扱うことを意味している。前述の学校教育について言うならば、現時点での公平な(妥当で受け入れられている)教育は機会の平等に基づく教育であり、将来の状況によっては結果の平等に基づく教育が公平な教育とみなされる可能性があると言うことができる。
「公平」ということばは「妥当で容認できる」というニュアスで使われるが、何を「妥当で容認できる」と感じるかは個人によっても異なるため、誰もが納得する客観的公平は実現することが難しい。このため、「公平でない」と主張し合う論争はいたるところで発生する。この際、「自分には妥当とは感じられず容認できない」と主張するだけでは説得力がないため、実際には相手を説得するために何らかの基準が引用される。「~という基準に基づけば現状は不公平だ(unfair)」という主張方法である。fairには「基準に準拠している」という意味もあり、客観的な基準に準拠していないことに対しては「不公平だ(unfair)」と主張することが可能になる。
例えば、アメリカのトランプ政権は貿易収支額を基準として、輸入超過の状態をunfair(不公平)だとして主張して日本とも貿易交渉を行ったが、この主張は妥当だろうか?貿易収支額を基準とするアメリカの主張に対抗して日本側は、「日本人は勤勉であり仕事に一生懸命で、仕事上の様々な努力の結果として今日の貿易黒字の状態に至っている。企業努力を無視して貿易収支額だけを基準に不公平だとする主張は妥当ではなく容認できない。自由競争(実際には完全な自由競争ではないものの)の結果を受け入れることが公平である。」などと主張することが可能である。但し、これに対するアメリカ側の反論も可能で、「日本の労働者の労働時間は諸外国に比べて長く、個人の私生活や健康を犠牲にしながら働いている。現在の貿易差額はこの異常な労働実態によって生じたものであり、異常な労働状態を前提とした企業業績をそのまま受け入れることはできない。日本は労働時間を諸外国並みに是正すべきであり、それができないのであれば貿易収支額を基準とすべきである。」などと主張することができる。この空想的議論のように公平さを主張する基準の選び方によって、どのようにでも相手に反論することが可能であるため、「公正さ」の議論は平行線をたどることが多く収束しにくい。
この例では少しわかりにくように思えるので、公平の基準は一つだけではないということを、あまり上品な例ではないが、トイレの男女間の公平を題材として考えてみたい。行楽地など人が混雑する場所では女子トイレに長い行列ができてしまうことがある。一般的には男子トイレと女子トイレは、ほぼ同じ面積で設置されているように思われる。しかしながら、男子トイレは小便器を個室で分離しないため、同じ面積で設置されたトイレでも便器の数は男子トイレの方が多くなる。このため便器の数が等しくなるように設置することが男子トイレと女子トイレの公平ではないかという主張が可能になる。さらに、トイレに要する時間はおそらく男子よりも女子の方が長くため、このトイレに要する実際の時間を基準として女子トイレの便器数を増やすべきであるという主張も可能である。このように、男女間のトイレの公平を考察する際には、面積、便器数、所要時間という3種類の基準が考えるうることがわかる。
およそ人に関係する物事には複数の側面や基準が存在しうるため、一つの基準に基づいてだけ議論をしようとすること自体に無理がある。このため、公平を論じる際には、関係者が問題を複数の視点から理解し合うように努めることが大切ではないかと考える。不公平が「妥当ではなく容認できない」という感情に裏付けられた感覚であることを踏まえると、不公平を訴えられた側は訴えた側の「妥当ではなく容認できない」という心の痛みを共感を持って理解しようとすることが、真の問題解決のためには重要である。満たされていないと主張された基準についてだけ是正すれば良いと思うようでは、訴えた側に心のしこりを残してしまう。不公平を訴える側については、主張する「不公平感」の根拠の客観性や妥当性について考察し、訴える相手や関係者に納得させる努力が必要になるであろう。「公平でなければならない」とか「公平であるべきだ」などと「べき思考」傾向の高い場合には、スパイラル的思考により不満や怒りが高まりすぎて返って説得力を失ってしまう可能性がある。
物事には複数の側面があり、また公平は個人的感情に裏付けられた感覚であることを踏まえれば、誰もが納得する客観的公平は存在しないと割り切った方が良い。怒りのコントロールに関するトレーニングを行なっているエマ・ウィリアムズとレベッカ・バーロウは、彼らのアンガーコントロールトレーニング(ACT)において、トレーニング参加者に「人生は公平なものではない」と教えており、このように割り切った方が怒りのコントロールにおいて有効であると考えている。客観的公平は存在しないと割り切った上で、公平は心が関係する問題であり、人間として納得しあえる合意点を見つけて、妥協しあうことが大切ではないかと考える。